多賀城
2014/10/02
松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置された律令時代の城。陸奥国府や鎮守府として機能した。特別史跡。
724年(神亀元)、大和朝廷が蝦夷を制圧するため大野東人が築城したとされる。
8世紀初めから10世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。
多賀城創建以前は、郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定されている。陸奥国府のほか、鎮守府が置かれ、政庁や寺院、食料を貯蔵するための蔵などが置かれ、城柵で囲み櫓で周囲を監視していたと考えられる。多賀城が創建されると、国府が郡山遺跡から移され、黒川以北十群(黒川・賀美・色麻・富田・玉造・志太・長岡・新田・小田・牡鹿)に城柵・官衙とその付属寺院が設置・整備された。これらの設置・整備は律令制支配の強化を図るものであり、多賀城はそれらの拠点を後援する為の根拠地であった。
これにより、平城時代の(狭義の)日本では、平城京を中心に、南に大宰府、北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城を建てて一大拠点とした。
多賀城政庁に隣接し、陸奥国内100社を合祀する陸奥総社宮を奉ずる。陸奥国一宮鹽竈神社(塩竃神社)を精神的支柱として、松島湾・千賀ノ浦(塩竃湊)を国府津とする。都人憧憬の地となり、歌枕が数多く存在する。政庁がある丘陵の麓には条坊制による都市(後に多賀国府(たがのこう)と呼ばれる)が築かれ、砂押川の河川交通と奥大道の陸上交通が交差する土地として長く繁栄した。
建武新政期と南北朝時代初期、多賀城には陸奥将軍府が置かれた。奥州将軍府は、多賀城の陥落後、将軍府の中心的武将、伊達行朝の所領である伊達郡の霊山に移転した。
所在地 | 多賀城市市川字城前 |
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見学時間 | |
遺構 | |
築城年 | 724年(神亀元) |
築城者 | 大野東人 |
主な城主 | 大野氏、藤原氏、北畠氏 |
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